マニラの街を観光するとなれば、まず目に入るのが、観光客を待ち受ける馬車だ。二人から四人が乗れる馬車が、マニラの中心街でその時を待っている。その光景は、いかにもマニラらしい。そして、令和の今になってもその風景は変わらない。日本の京都や金沢でよく見かける人力車とは少し違う。違いの一つは、マニラの馬車には「罠」が仕掛けられていることだ。馬車に乗ったからといって、命を落とすわけでもないし、怪我をするわけでもない。ただ、何かが待っている。
マニラの中心部、観光名所にずらりと並んだ馬車。大きな看板には、「30ペソ」と書かれていた。日本円でわずか60円だ。看板には観光地を巡るルートや写真も記されている。私はこういった手口に簡単に引っかかるタイプではない。だから、まずは確認した。「一人30ペソ? それとも、一回の乗車で30ペソ?」 馬車の男は笑顔で何度も繰り返す。「OK, OK, 30ペソ」 まあ、たとえ騙されても、30ペソが3万円になるわけじゃないだろう、という軽い気持ちで乗ってみた。
乗ってみると、案外悪くない。馬車はゆっくりと進み出す。馬車を操る男は、痩せていて色黒、フィリピンの日差しを浴び続けたのだろう、年は20代半ばか。茶色い馬をムチで操り、彼も馬も汗をかきながら走っていた。
観光地を一か所ほど巡り、少し暗い場所に差し掛かったとき、突然、男の態度が豹変した。
「30ドル、二人で60ドル!」おっと、来たか。私は冷静に応じる。
「ノー、30ペソ」 馬車の男はさらに畳みかける。「30USドル、30USドル」続けて馬車の男が大声で叫んだ
「馬、かわいそう」「馬、かわいそう」
なぜか日本語だ。
確かに馬は汗だくで、見た目には可哀そうに見える。だが、その馬をムチで叩き、走らせているのは紛れもなく馬車の男である。馬を使って商売をしているのは馬車の男である。そして、どうしてか「馬かわいそう」だけが日本語。別の言語でも馬かわいそうだけは言えるのだろう。彼の仕事なのである。
「60ドル!USドルだ!」馬車の男は更に声を荒げる。これはやばい。危害を加えられるかもしれない。逃げられるのではないか?そう思うかもしれないが馬車というのは思ったよりも高い位置にあり、簡単に飛び降りれるものではない。少し人影が見えたところで私は大声で叫んだ。「ポリース! ヘルプ!」この光景を想像すると分かるだろうが、もはや観光どころではない。馬車内はパニックである。
「60ドル!USドルだ!」「ポリース! ヘルプ!」もはや言い争いとなったパニックの馬車は不穏な空気のまま、ようやく停車した。本来予定していた下車位置ではなかったかもしれない。乗車からあっという間の下車だったのできっとそうだろう。私は何とか降りることができた。その時どれだけのお金を男に渡したかは覚えていない。不思議なもので60ドルだ!と脅された後の30ドルが安く感じたのは確かだ。半額じゃないか、とどこかで妙に納得してしまっていた。私は30ドルくらい払ったのかもしれない。
パニックの馬車が解決した後に目に入ってきたスターバックスのロゴが目に焼き付いている。あの場所は絶対に忘れない。
フィリピンという国の平均年齢は20歳後半ととても若い。子供も多いが大人も早く亡くなるということだろう。フィリピンでは老人をあまり見ないという現実も目の当たりにする。あの馬車の男は今も元気に生きているだろうか。「馬かわいそう、馬かわいそう」あの日本語は未だに頭に焼き付いている。
書いている人について
Go, Discoverを運営している小西裕太です。記事や写真などすべては私が書いて撮影したものです。私は金沢市を拠点にWeb制作などの仕事をしていますが、旅が大好きで、これまでにアジアやヨーロッパを中心に20数カ国を旅してきました。まだ訪れた国は決して多くはありませんが、その中で経験したことはどれも心に残るものばかりです。思わず笑ってしまうような出来事や、心が温かくなる瞬間。旅を通して感じたものを、いつか誰かと分かち合いたいとずっと思っていました。もしこのサイトを通じて、「旅に出てみたいな」と思ってくれる人が一人でも増えたら、それ以上に嬉しいことはありません。