タイの観光地といえば水上マーケットを思い浮かべる人も多いだろう。水の上に浮かぶ家々の間を、小さな木造の船がすいすいと通り抜ける。船はここでは生活の一部であり、住民の足代わりにもなる。そして、その船上で商品を買い物するのが水上マーケットの醍醐味だ。観光客も船に乗りながら、ここでの特別な体験を楽しむのだ。バンコクにはいくつもの水上マーケットが存在し、調べるとその数は6つにのぼる。それぞれがバンコク中心部からタクシーなどでアクセスでき、そこから船に乗り込んでマーケットを巡るのが一般的な観光スタイルとなっている。
この水上マーケット観光は、バンコクのタクシードライバーにとっては観光商品の一つでもある。最近はGRABなどのアプリで移動が効率化されたが、以前は野良で走るタクシーが当たり前だった。ドライバーたちは観光客をターゲットに様々な商品を売り込んでくる。今では考えにくいが、ほんの10年前のバンコクではそれが普通だったのだ。
その日、私がタクシーに乗ったとき、気さくなドライバーと話したのが始まりだった。赤いタクシーに乗っていたことは今でも鮮明に覚えている。ドライバーとの会話は「毎日忙しいのか?」「家族は元気か?」などといった気さくなものだった。そして「どこでも連れてってやるから、いつでも連絡してくれ」と言って、名刺を手渡された。普段なら気にもしないことだが、そのドライバーとの会話が印象に残り、少しだけ心に引っかかっていた。
その時、私のタイ旅行の目的の一つは、「願いが最速で叶う」という「ピンクのガネーシャ」を見ることだった。しかし、ピンクのガネーシャのいる場所はバンコク中心部から遠く離れており、どうやって行けばよいか悩んでいた。バスで行くとしても、帰りはどうするのか。GRABやUBERが使えるエリアではないだろう。そんな悩みを抱えていた時、ふと頭に浮かんだのが、あのタクシードライバーだった。
私はホテルのスタッフに頼んで、そのドライバーに電話をかけてもらった。ピンクのガネーシャまで連れて行ってほしいと伝えてもらい、翌日、ホテル前で待ち合わせた。時間通りに赤いタクシーが現れ、「ピンクのゾウまでお願いします」と告げると、「OK,OK」と快く応じてくれた。その安心感からか、私はタクシーの中でぐっすり眠ってしまった。
しかし、目が覚めてみると、Google Mapが示す場所は、ピンクのガネーシャとはまるで逆方向、バンコクの西側に1時間も離れた場所だった。「ピンクのガネーシャに向かっているんだよね?」と確認すると、ドライバーは「OK,OK」と繰り返すばかり。そう、私はその時初めて、ピンクのガネーシャにはたどり着けないことに気付いたのだった。
そして1時間後に着いた場所は、有名な「ダムヌン・サドゥアック水上マーケット」。後で知ったのだが、ここは観光客向けで何でも高いと有名だった。それに加えて、到着したのは昼過ぎで、多くの店は既に閉店していた。ぼったくられる心配はなかったが、活気のないマーケットはどこか寂しく、やるせない気持ちになった。帰りのタクシーの中は無言のまま、ただただ長い時間が過ぎていった。沈黙の中、タクシーから見るタイの夕暮れが私を包んだ。
憂鬱な時間というものはなぜか心に深く刻まれるものだ。こうした思い出こそが、忘れられないものになるのかもしれない。
書いている人について
Go, Discoverを運営している小西裕太です。記事や写真などすべては私が書いて撮影したものです。私は金沢市を拠点にWeb制作などの仕事をしていますが、旅が大好きで、これまでにアジアやヨーロッパを中心に20数カ国を旅してきました。まだ訪れた国は決して多くはありませんが、その中で経験したことはどれも心に残るものばかりです。思わず笑ってしまうような出来事や、心が温かくなる瞬間。旅を通して感じたものを、いつか誰かと分かち合いたいとずっと思っていました。もしこのサイトを通じて、「旅に出てみたいな」と思ってくれる人が一人でも増えたら、それ以上に嬉しいことはありません。